能登の未来
FUTURE
投稿者
安宅佑亮
震災当日の1月1日、私は上海にいました。日本にいる友人から、「今石川がやばいことになっている」と連絡をいただいたのが、最初にこの地震のことを知ったきっかけでした。Twitterで情報収集すると、今までの地震とは比べ物にならないくらい被害が甚大なこと、津波がきていること、家族と全く連絡が取れず安否もわからないこと。襲われるような不安感と溢れ出る無力感で、気づいたら泣いていました。
どうしてこんなタイミングなのに自分が家族のもとにいてあげられないのか、現場で地元の力になれないのか。海を隔てた遠いところでスマホで情報収集することしかできない。もはや微力ですらない。自分はこの状況において完全に無力であることを痛感しました。ひたすらに悔しい気持ちでいっぱいでした。
多くの友人から託された物資を背負い、珠洲に戻ってくることができたのは、1月5日の正午でした。そもそもこのタイミングで現地に入ってもいいのか、入ったところで自分は何ができるのか、たくさん葛藤した結果の行動でした。「考えられるリスクをできるだけ減らした上で向かう」、それがその時出した結論でした。
珠洲に着いてから様々な支援・復興活動を続けていく中で、ずっと自問していた疑問がありました。それは、「どうして自分はこんなに能登のために頑張っているのだろう」ということです。「それが自分の地元だから」と一言で片付けられるものでもなく、とはいえ自分の行動をそうたらしめる核心的な回答も見つからずにいました。最近少しその解が見えてきたような気がしていて、それは「能登の未来」は「自分の未来」だと感じるからだと思うようになりました。自分が今まで享受してきた珠洲での生活や文化、食や人とのつながりが自分の今を形作っていて、その珠洲が崩れかけていくのを黙って見ていられない。ただそれだけなんだと思います。
そのため、かなり前置きが長くなってしまいましたが、100年後にどのような場所であって欲しいかという問いに対しては、自分自身が「このまちが好きだ」と胸を張って言えるまちであるといいなと感じます。状況が刻一刻と変化していく中で一概にこうだとは言えませんが、今よりももっと自然と共生している社会であれば嬉しいです。今回、自然の脅威にさらされたわけですが、本来能登の人々は自然と共に暮らしてきたはずです。田んぼなどの農業や漁など我々はその恩恵をたくさん受けてきました。自分たちが今もなお大切にしている祭り文化も元々は自然や土地と人をつなげるコンテンツだったはずです。今回の地震は何も天変地異ではなく、もともとそこにあったもので、ただ本来あるべき姿に近づいているだけなんだと感じます。(被害を軽視する意図はありません)
「能登はやさしや土までも」
この言葉が100年後も伝わり続けていること。それが僕の描く100年後の能登の姿です。